少しの後悔
祖父が死んで、配偶者の顔も見せられなかったのは少し後悔している。
親が死ぬときには、もう少し大きい後悔になるような気がする。
まだ未来のことだけど。相手に不誠実だけど。ある種の義務感にとらわれているが、たぶん間違っていないと思う。
夜に爪を切るな
父方の祖父が死んだ。余命半年と申告されたが、半年もなかった。
半年と言われてそれより短くなるとは思っていなかった。
後悔先に立たずということわざはあまりにストレートだと思う。含
もう少し会いに行けばよかった。最後に言われたのはもっと顔見せろよだった。
自分は明確におじいちゃん子だった。自分が産まれる前年に祖父は定年退職しており、よく預けられていたという。
祖父は足を悪くしたため親と暮らしていて、親が夜ごはんに呼びにいったら冷たくなっていたという。
その日の朝は元気だったらしい。買いだめしていた流動食がまだ3箱くらい残っていた。
祖父は終戦時に15歳で、召集令状が来ていないのに海軍に志願して訓練をうけていた。
結局終戦により戦地には赴かなかったが、デイケアにまで海軍の帽子をかぶっていくくらい思い入れが強かったようだ。その帽子は棺桶にいれられ一緒に焼かれた。
祖父の家には新聞赤旗があって、遊びにいったときにはそのクロスワードをやっていたことを思い出す。
葬儀屋のいい声のおばさんが散々イイ感じのことをアナウンスしてくれるけれど、あれで泣く人は沢山いるのだろうか。自分は気持ちが冷えていく。
祖父の棺桶に入れられていた浮世絵の写しを見たときは自然と涙が込み上げた。
祖父の新居祝いに、友人が送ってくれたものだという。その家を離れ親と暮らしているなかでも、旧宅にあったその浮世絵の写しを持ってきてくれと頼み、自家製の額にいれて大切に飾っていたという。
なぜ涙が出たのか。筆舌につくしがたい。
夜に爪を切ると親の死に目に会えないというが、夜に爪を切るという行動に対し、あまりに報いが大き過ぎないかと思う。
そういえば上司たちは職場に来て朝爪を切っているような気がする。
自分はだいたい風呂上りに爪を切っているので、必然的に夜になる。
なんとかなりませんか。
ラブソングを歌ってくれ
やはり週末は何もしなかったけれど、踏んづけた眼鏡の角度を直すためにショッピングモールにだけは行った。
この前ZIP!でaikoがアルバムを出すというのをやっていたので、ショッピングモールにあったタワレコでそれを買ってきた。大きなポスターがおまけについてきて、若者の部屋に飾ってあるポスターはこうやって入手しているのかと納得した。
aiko歴はアルバム「彼女」が出たころなので、中学生くらいから聴いていて、もう10数年以上になる。ここまでラブソングだけを一生歌っていられる歌手というのもそうそういないだろう。
ラブソングが好きだ。恋だの愛だのの言葉でつくったストーリーを、声と音とリズム(=ノリ)でなんとか納得させてくれること。これがラブソングの最大の魅力だと思う。
普段のノリがあまり無い自分にとって、ラブソングはある種の憧れなのであって、歌詞に共感しているわけでは決して無い。
だから、噓くさい歌詞は、ノリと歌唱力がよっぽどじゃないと聴けない。自己啓発系の歌なんかがそれである。
歌手にはラブソングを歌ってほしい。夢を見させてくれ。
ノリの強弱の好みにも個人差があって、だからこそ、ずっと聞いていられる歌手が人それぞれ違う。aikoは自分に合った歌詞とノリと声となのだろうと思う。自分はドリカムとかを聴くともうムズムズして仕方ない。
ノリが欲しい。おやすみ。
臨月
大学院の先輩が臨月だという。無事に出産されることを願うばかりである。
臨月とは、(出産に)臨む月なのか、月を臨むことなのか。両面的でどこかアンニュイな熟語である。
見ればわかるように「かぐや姫の物語」は、いわば「女性の物語」である。「マッドマックス怒りのデスロード」的なコテコテのフェミニズム(再生産機能の奪還)とは異なり、「かぐや姫の物語」は、生への希求というアンビバレントなものである。
社会的な価値観の押し付けで、姫は精神的に不安定な状態になっていく。「かぐや姫の物語」で作画も含め特に印象的な疾走のシーンや、桜のシーン、庭を破壊するシーンなど、その精神的な不安定さは目白押しである。
竹取物語を知っている我々からすれば、月を臨み、月に帰らなくてはといい始める姫の言動は、予定調和的であるが、竹取物語を知らないならば、その唐突さは、むしろ本格的に精神的に異常をきたしたのかとさえ思われる。
精神的に異常をきたしていたと読んでいくならば、姫は都の人が寝静まっている間に死んだと読んだとして、おかしくはないのではないか。姫が、月の世界は「喜びも苦しみも無い世界」的なことを言っていたが、これはまさに解脱の境地であり、迎えに来た月の人達のボスは、仏的な何かであった。(この映画の印象的な挿入歌「わらべ唄」はアンチ解脱のテーマソングである)
当時の人々にとって、月へ帰るとはどういう意味だったのだろう。まだ地動説のちの字すら出てこない時代に、月が本当に居住できる場所だとは考えてはいまい。遠い別世界くらいの感覚であったと想像できる。姫は月に逝ったのである。
かぐや姫の物語がアンビバレントなのは、本来的な生への希求というテーマがあり、女性に絡みつく社会的なしがらみが、それへの阻害要因となっている点である。
何が言いたいかというと、早く寝ようということである。
おやすみ。
眉のこと
髪を切りにいったら、高校生か聞かれた。高校生だったのは10年くらい前の話で、失礼である。
やはりどこか風格にかける顔つきをしている。痘痕面なのも悪い。眼鏡もいけないのかもしれない。人生経験も薄い薄い。
鏡の中の自分がカッコよく見える人種が一定以上いるらしい。
カッコよく見えていたとしても不細工は不細工なので、自分はどうしようもない。
鏡を見て思うが、自分の顔は眉と目が離れすぎていると思う。
テレビに出ている人達はどうしてあんなに眉と目の距離が近いのか。目と眉が離れている女の子と、この感情を分かち合ったことがある。
そもそもなぜ眉毛とかいう毛が特定の場所に恒常的に生えて来るのかという疑問が湧く。
頭髪や腋毛、鼻毛や陰毛に比べて必要性が薄い。ヒゲも必要ないっちゃ無いが、女性は比較的生えてこない。眉毛だけが異常である。
進化の過程で毛が生えなくなっていくなか、眉毛だけ残っていったのには、きっとそれなりの理由があるのだろう。表情でのコミュニケーションに眉の毛は重要だったとか、適当な理由がつけれられそうである。
調べたらそんな研究がありそうな、至極普通な考えなので調べないようにする。
もっと楽しい妄想がしたい。おやすみ。
風邪
猫に布団を取られて風邪を引いた。
寒さで目が覚めると、厚い毛布は猫の座布団になっていた。
いつも一緒に寝ているとこういう日もある。
風邪が治っても鼻水が止まらないので、どうやら花粉症も併発したようで、やっかいである。田舎者なのに花粉症なことにちょっとした恥じらいを覚える。田舎と花粉症になんの関係性もないけれど。
大気中に花粉が満ち満ちているのが不思議で、花粉が濃いところと薄いところがあるはずとマスクを外して探る夢を見る。
ブログを始めたときのコンセプトが毎日更新だったが、下手すると季刊になりそうな更新頻度で悲しい。
今週末は久々に東京にふらふら遊びに行ったので更新。明日書こう。
起伏
1月の2週目の週末から4週連続でスキーに行き、3連休を溶かし、先週は登山をしてきた。
大学のサークルぶりなので、かれこれ3年くらい山を歩くことは無かったが、久々に登ると楽しいもので、また行こうという気になってくる。晴れていたのも良かった。
社会人なので装備もキラキラなものを買える。
一緒に行った人は、昨年の秋くらいから登山を始めて、先週くらいまで毎週末かかさず山に登っているというツワモノであった。だったっぴろい関東平野を行ったり来たりしている毎日では疲れるから、山にも登って一汗かきたくなる。
つまり起伏が欲しいのだ。
自分も今年から、なんだかんだで毎週末ほとんど山にいるので、よほど起伏を欲している。大学に入ったときから起伏を欲していたともいえる。
最近はそれはもう平坦な毎日で、体重が増えに増え、お腹周りなどひどいもの。これは体重計のバグだと思うが、69.9kgあった。豆乳なんて買ってみて、運動を始めようという話をしている。これ以上醜くなると目に毒。涙が出る。
字義を雑に考えれば、起きて寝れば起伏といえるかもしれない。われわれは毎日起伏している。それに満足できる幸せな人間になりたかったと思う。
備忘録:昨日歯磨き粉を替えたら美味しかったが、今日はそうでもなかった。
おやすみ。