全部全部雑記

思ったことを恥ずかしげも無く

米寿

祖父母の米寿のお祝いに行った。

前も書いたが、祖母はボケている。祖父も左手の中指から小指までが動かなくなってきたという。心身ともに障りが出てきている。だけど、88まで生きるということは単純に凄いことな気もする。お祝いがあるのも頷ける。めでたいことだと思う。ただ喜び方は、まだいまいちわからない。

自分が88になったらおそらく寝たきりだ。あるいは88までに死んでいる。

若かりし頃に海兵だった祖父の身体ですらガタがくるのに、いわんや自分をや。ちょっとジムにでも行こうか。生来女の子ぐらいのパワーしかないし、なんとかなりたいとは思っていた。問題は、この田舎にジムがあるかということだ。寂れてそうだし、すぐに行かなくなりそうな気もする。

 

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伯父さんの家の近くにラッコ公園と呼ばれる公園がある。名前の由来は、奇妙な顔をしたラッコの遊具があったことからだが、今日その公園の近くを通ったら、既にラッコはいなかった。あの変なラッコは葬られたのだろう。自分が小さい頃にすでにハゲかけていたし。ただラッコ公園はいまもラッコ公園と呼ばれているらしい。不思議。いや、そういうものなのかもしれない。

タヌキと金魚

また家の金魚がタヌキに襲われた。低いところに置いてあった水槽の蓋が開けられて、3匹の金魚が犠牲になった。ガラスの蓋を割らずにあけて、律儀なものである。流金の鱗と綺麗な尾びれでけが、これまた律儀に残っていた。

金魚が食べられるのは仕方ないしかわいそうとは思わないが、父親はかわいそうである。朝晩かかさずエサをやって、丸々肥った金魚が野生に強奪されたのだから。

おそらくタヌキが水槽の蓋を開けたとき、金魚たちはエサだと思って迷わず水面にやってきて、逆にエサになってしまったのだろうと思う。この想像はとても悲しい。

だけど夜中外に出ると、水槽の周りは水浸しで、足跡がウッドデッキを点々としていることがあるから、多分タヌキは水に潜れるのだと思う。だから、どっちにしろ蓋が開けられた時点でおしまいなのだ。

 

それにしても、タヌキはどこに住んでいるのだろう。水槽に金魚がいなくなった今も、水に濡れた足跡をしばしば見かける。おいしい金魚がいるとわかって、家に出入りしているのだと思う。田んぼの向うの、たくさん木の生えた辺りから出張して金魚を採りに来ているのかもしれない。

栄養満点の金魚が必要だったら、妊娠しているかもしれないと思うと、また胸が膨らむ。それは、このあたりにまだタヌキが生息しているということだ。子ダヌキを捕まえてきて、飼ってみたいと思う。

 

母親は本当にタヌキを飼っていたそうで、笑ってしまう。成長して悪さをするようになったので、おじいちゃんが殺してしまったそうだ。その晩はタヌキ汁だったという。外側は剥製になっておじいちゃんの家に飾ってある。タヌキは今も、傘をかぶって、お酒をぶらさげて、床の間で遠くを見つめている。

不思議な体験

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大学2年生の冬、僕と友達2人と旅行に行った。大阪から和歌山を経由して名古屋へ。これは最終目的地の名古屋で体験した話。

その日は冬晴れで、気持ちよく名古屋周辺を満喫した。その後、当初から予定していた名古屋市科学館に行くことにした。大きいプラネタリウムで有名な科学館である。プラネタリウムだけでなく、常設の展示も見ていくことになった。

大きい科学館なので色々な展示がある。たしか「光の不思議」というブースだったと思うが、そこに影絵で遊べる部屋があって、僕たちはそこに入った。影絵を作って遊べるのだけど、部屋にはドアがないので、部屋の外を通る人たちの影が壁に映る。たくさん人が通って、中を覘いてピースしてみたりする人たちが少なからずいた。ぼーっと立って影が映る壁を見ていると、壁の上の方に、ゆらゆらと横に伸びる小さな手があるのに気づいた。腕の部分はとても細いのだけど、手のひらははっきりとパーの形をしている。不思議に思って見ていると、サッと消えた。全て一瞬のことだったような気がする。友達に「見た?」と聞かれてた。見た見たと答えると、眼を見合って一瞬沈黙し、苦笑い。3人で「こわあ」と言って部屋の外に出た。

もちろん、なにかの形で外の人の手が投影されたのかもしれない。その可能性も低くは無いが、不思議だった。友達もこの話をすると覚えていて、「あー。あったあった」って感じになる。

 

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怪談って書くの難しいなあ。これは実際にあった話です。

 

実話怪談が好きで、今も書店でみかけると結構買ってしまう。おすすめの実話怪談。

◆『新耳袋』シリーズ(全10夜)

新耳袋―現代百物語〈第1夜〉 (角川文庫)

新耳袋―現代百物語〈第1夜〉 (角川文庫)

 

 一冊につき、九十九話収録。一晩で読むと不思議なことが起るという噂がある。ポップな怪異譚で、おどろおどろしい話は多くない印象。江戸の怪異譚、「耳袋」から名前を取っていて、「耳袋」もめちゃくちゃ面白いので是非。

映像化もされていてテレビでやっていた。若かりし頃の要潤堀北真希が出演している。僕はテレビでやっていた「怪談新耳袋」から小説に入った形です。youtubeでも見れるかな?

著者の木原さんは後継シリーズとして『九十九怪談』というシリーズも書いていて、こちらも良い。

 

◆『平山夢明恐怖全集』シリーズ(全6巻)

平山夢明恐怖全集 怪奇心霊編1 (竹書房文庫)

平山夢明恐怖全集 怪奇心霊編1 (竹書房文庫)

 

 こちらはおどろおどろしいものが多い。1巻は誤植が目立つ。

『独白するユニバーサル横メルカトル』などで有名な作家だが、バックグラウンドとして、実話会談があるのは面白い。

 

気軽に読める読み物として、実話怪談系は本当にオススメ。

一話くらい怖い話を語れるようになりたい。なので怪談バーに行ってみたいと常日頃から思っている。お酒は飲めないけどね。おやすみ。

ネット怪談

ハヤカワ文庫JAの『裏世界ピクニック』を読んでいる。

 超有名ネットロア「くねくね」や「八尺様」のモチーフに惹かれた。まだ全部読んでいないけど、ちょっとヤングすぎるかな?

 

「くねくね」「八尺様」ともに洒落怖まとめで読めるので是非。ホントに傑作です。

http://syarecowa.moo.jp/31/756.htm

http://syarecowa.moo.jp/196-2/71.html

「くねくね」は特に、この短さでよくこの密度に仕上げられたなと驚嘆。一度読むと場景が眼に浮かぶし、忘れない。そして怖い。

 

自分は、これ見よがしな心霊体験をしたことがない。けど、不思議だなと思った体験をしたことがある。まとまりが悪いし、明日書こうと思う。書かないかもしれない。おやすみなさい。

仕事のできるタンス

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気づいたらこうなっていた。

このネクタイの締まりの良さ。さぞかし仕事ができそうだ。代わりに出勤して欲しいとすら思う。高身長で、引き出しも多い。

ひるがえって、この雑然とした感じ。意味不明なサマーベット。タンスにネクタイを挟んでも気にならない性格。この部屋の持ち主は、仕事ができなさそうである。

 

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『騎士団長殺し』の上巻を買ってきた。下巻はママ上に買ってきてもらう所存。

3月は欲しい本がたくさんある。金欠必至。

父と似ていること

自分は父親に似ていると感じる。顔も父親似だ。基本的に消極的で、面倒くさいことは可能な限り避けたがる。安定を好む。結局、職業も同じになった。

父の部下(?)が辞めて、東京都に就職するらしい。地元であるその職場を辞めて、通勤で新宿くんだりまで毎朝出て行ってさらに毎晩帰ってくるなんて、ちょっと考えられない。父親も同じ考えだった。その辞める人は、きっと向上心が高いのだろう。

来年度から自分も地元の職場で働くことになるが、気に入らないことがあっても、よほどでない限りやめないだろうと思う。辞めて就職先を探すなんて、考えるだけで面倒くさい。

 

父親は尊敬している。僕も含めて兄弟は3人だが、みな就職するまで不自由なく生活できた。次男は大学が私立なので、奨学金という名の借金がえげつないがまあ仕方ない。自分も100万ほどある。はあ

母が仕事をし始めてから、朝昼晩全てのご飯は父が作っていた。瑣末な家事は兄弟で、母は食器を洗ったり家の掃除をしていた。

初任給は両親に何かプレゼントしたいと思う。奨学金以外にも借金は豊富なのだけれど...

 

自分は父と似ている。だけど、自分が父親になったとしても父のように振舞えるかは怪しい。万が一振舞えたとしても、自分のような子どもを育ててはいけないとも思う。20越えてくるとわかる親のすごさ。

今日は内定者説明会で疲れた。同期は7人。入社までの課題はのんびりしたものだったが、労力がかかりそうだ。うまくやっていけるかな。おやすみ。

逃走

逃げるように大学院をやめて家に帰ってきた。これから大学に行くことはほとんど無いだろう。

 

修士論文は書けなかった。就職留年のつもりで提出を延ばしたが、補欠合格が通ったためそちらを取ることにした。論文を書く意欲が高ければ、おそらく内定など蹴っただろう。去年うけた試験の難易度であれば、今年また受けたとしても1次は通る自信がある。入学当時は漲っていた論を書く意欲が、とにかく消えていた。もう一年いても書けたか怪しいとすら思う。

ものすごく単純な出来事で、頭で考えることの価値が自分のなかで激減したのだ。

意識の偏重から身体へ。これは卒業論文でテーマにしたフィクションのありかただった。そして自身の内にある問題意識でもあった。だから、その単純な出来事は自身のコンプレックスを大いに刺激した。

僕は理性的で、相手は身体的だと言われた。そして身体的なほうを選んだのである。単純で、自分の論とも整合性はつく。僕も身体的な人間のほうが好きだ。

論を書くことがいわば理性的な振る舞いだとすれば、自分はもうそれをしたいとは思わない。

 

我ながら圧倒的弱さで驚く。そして大学院から逃げてきた。もう2年近く前になることをまだウダウダいっている。そもそも修士論文を書かない言い訳に、その出来事をつかっているだけなのかもしれない。男ならスパッと忘れて切り替えないといけない。男なら。