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風が止んで、生きていくことができるか:『風立ちぬ』について(2)

映画『風立ちぬ』には、夢のシーンがとにかく多い。

冒頭も、二郎の飛行機の夢から始まる。

二郎が飛行機を乗り回していると、はるか上空に巨大な戦艦が現れる。生物的な印象を与えるこの戦艦に不気味さを感じた鑑賞者も多いと思う。二郎は戦艦に向かっていくが、眼の焦点が合わず撃墜されてしまい、落下とともに眼が覚める。

印象的なのは二郎が目を覚ました後、眼鏡をかけて遠くを眺めるシーンである。パイロットとしての将来の夢のため、目の運動をしているようにも見える。(劇中に星を眺めるシーンがあるが、そこで遠くを見ることで視力が回復するということを妹に言っている。)それに加えて、飛行機の夢が戦争の夢に取って代わられてしまうこと自体が、二郎にとっての大きな不安でもあった。だから、眼鏡をかけて遠くを眺めるシーンは、飛行機自体に夢の焦点を定めようとする行為にも読めるように感じる。

 

そもそも夢とは、ある主体が意識的にであれ無意識的にであれ「知っている」ことしか表出されえない(はずである)。映画『風立ちぬ』はSFではないので、やはりそうでなくてはならない。

飛行機が好きで、時代も第二次大戦前であることを考えれば、やはり子どもながらに飛行機と戦争が結びつくことは知っていたと考えるのは妥当なように思える。

二郎の夢にしばしば登場するカプローニは、「飛行機は呪われた夢」だということをしばしば言うが、二郎の夢である以上、やはりそれは二郎が知っていることでなくてはならない。

「知っている」ことしか夢に出てこないという前提があると考えて、この映画のエンディングでもある最後の夢について書きたいと思う。明日に続く。