臨月
大学院の先輩が臨月だという。無事に出産されることを願うばかりである。
臨月とは、(出産に)臨む月なのか、月を臨むことなのか。両面的でどこかアンニュイな熟語である。
見ればわかるように「かぐや姫の物語」は、いわば「女性の物語」である。「マッドマックス怒りのデスロード」的なコテコテのフェミニズム(再生産機能の奪還)とは異なり、「かぐや姫の物語」は、生への希求というアンビバレントなものである。
社会的な価値観の押し付けで、姫は精神的に不安定な状態になっていく。「かぐや姫の物語」で作画も含め特に印象的な疾走のシーンや、桜のシーン、庭を破壊するシーンなど、その精神的な不安定さは目白押しである。
竹取物語を知っている我々からすれば、月を臨み、月に帰らなくてはといい始める姫の言動は、予定調和的であるが、竹取物語を知らないならば、その唐突さは、むしろ本格的に精神的に異常をきたしたのかとさえ思われる。
精神的に異常をきたしていたと読んでいくならば、姫は都の人が寝静まっている間に死んだと読んだとして、おかしくはないのではないか。姫が、月の世界は「喜びも苦しみも無い世界」的なことを言っていたが、これはまさに解脱の境地であり、迎えに来た月の人達のボスは、仏的な何かであった。(この映画の印象的な挿入歌「わらべ唄」はアンチ解脱のテーマソングである)
当時の人々にとって、月へ帰るとはどういう意味だったのだろう。まだ地動説のちの字すら出てこない時代に、月が本当に居住できる場所だとは考えてはいまい。遠い別世界くらいの感覚であったと想像できる。姫は月に逝ったのである。
かぐや姫の物語がアンビバレントなのは、本来的な生への希求というテーマがあり、女性に絡みつく社会的なしがらみが、それへの阻害要因となっている点である。
何が言いたいかというと、早く寝ようということである。
おやすみ。