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風が止んで、生きていくことができるか:『風立ちぬ』について(3)

昨日は久しぶりに精神衛生が良くなかったので更新する気が起きませんでした。

そういう日には、決まって夢にイマカレが出てきて、朝起きると女生徒ばりの最悪の気分になる。解決策を一生募集しています。

 

さて、『風立ちぬ』について。

二郎の最後の夢は、撃墜されたと思しき飛行機の残骸がそこらじゅうに散らばった野原から始まる。夢にはカプローニと菜穂子が登場し、カプローニは「君は生きねばらなぬ」と、菜穂子は「生きて」と口にする。二郎は「ありがとう、ありがとう」と言ってこの映画は終わりである。

先日(2)で言ったように、夢には「知っている」ものしか登場しない。僕がイマカレの顔を見てしまったのは一生の不覚である。顔はほとんど覚えていないが、それでもやはり僕の夢にはイマカレが登場する。

どこかで知っていることが夢として出来するとしたら、二郎の夢に登場する人々が端的に「生きろ」と言うことは、どういう意味に捉えられるのか。

夢の中で生きるように促されること。最初に『風立ちぬ』を見たときから、最後の二郎の夢には死ぬことへの願望があるように思った。「君は生きねばならない」この文言には明らかに強制的な意味合いが含まれている。同様にこの映画のキャッチ「生きねば。」にも、生きることにたいする倦怠を読みとれる。義務感なのだから。

最初の二郎の夢から、飛行機が戦争の道具になりうることを知っていたことがうかがえる。また、二郎は菜穂子が死にうる状況でも、仕事を捨てきれず、一緒に住む。黒川さんが言っていた「それはエゴではないのか」という言葉が、菜穂子が死んだあとに思い出されないはずはない(と思う)。

菜穂子が「生きて」といった後に、状況に以上に不釣合いなキラキラした音をさせて消えていくところが、映画館にいた僕には絶望的に思えた。そこで「生きて」という言葉はあくまで二郎の内的な菜穂子が言っている言葉でしかないことに気づかされたのである。

 

二郎と菜穂子が愛し合っていたことに疑いを挟む余地は全く無い。しかし、それを二郎自身がどうとらえていくか、はまた別の話である。『風立ちぬ』の評価について、ここに常に違和感があった。二郎は人でなしであるとか、サイコパスだとか言われていて、さすがにかわいそうになった。

二郎が作りあげた飛行機が完璧な飛行をし、菜穂子が八ヶ岳に帰ったときに、二郎の風は完全に止んでしまった。あそこで茫然自失となるのは、風が止んだからだ。

二郎の夢で、カプローニにしばしば「風はふいているか」と問われることがあった。そしてそれに二郎は「はい」と答えていた。しかし、最後の夢では「君の創造的10年はどうだったか」とか「生きねばならない」としか言われないのだ。

だから、「風立ちぬ、いざ生きめやも」はこう解釈したい。「風が吹いてしまった、生きていくだろうか」と。

エンディングテーマの「ひこうき雲」もマッチしているように思う。あの子の命は飛行機ではなく、飛行機の残滓の「ひこうき雲」でしかない。だとすれば、「あの子」を二郎と捉えてもいいのではないかと思う。飛行機の熱でできた「ひこうき雲」はそのうち消えてなくなる。けど僕は飛行機雲を綺麗だと思う。

 

ちょっと暗いかな。明日は飲み会!おやすみ。