風が止んで、生きていくことができるか:『風立ちぬ』について
「笑ってはいけない」を借りてくるついでに、アニメ『風立ちぬ』を借りてきた。
前々から書きたいことがあった。
『風立ちぬ』は、堀辰雄の小説が原案になっていることは言うまでもなく、映画冒頭にエピグラフとしてヴァレリーの詩とその堀辰雄訳が示されている。
いわく、「風立ちぬ、いざ生きめやも」
古典の教養が多少ないと読めないが、これを読めるかどうかでこの映画の見方が全く変わってくる。
「生きめやも」の「め」は、意志・推量などを表す助動詞。
「や」については、古めかしい言い方になるが、「~やもしれない」という言い回しに使われている「や」と同じで、疑問・反語の係助詞である。現代では「~かもしれない」となっているが、この「か」と文法的には同じだといえばわかりやすいかもしれない。
「も」については、詠嘆を表す終助詞のはず…(?)
「生きめやも」を平易に訳してみると、「生きようか」もしくは「生きるだろうか」。「や」を反語でとれば、「生きようか、いや生きない」「生きるだろうか、いや生きない」となる。
「いざ」がミスリードを起こすが、表現としてはむしろ適切で、「いざ生きめやも」全体で決意の裏に弱弱しさがあるような印象を与える。(ような気がする)
実は、この翻訳は間違っているということが既に指摘されまくってきた。
ヴァレリーの詩の直訳は、「風が吹いた、生きることを試みなければならない」となるのだ。映画『風立ちぬ』でもこのことには意識的で、二郎は菜穂子と出会う電車でヴァレリーの詩を正確に訳している。「生きることを試みなければならない」と。
小説『風立ちぬ』を読めば、この訳は間違いといううよりもむしろオマージュだとわかるような気がするが、とにかく映画『風立ちぬ』では、「風立ちぬ、いざ生きめやも」がエピグラフで、「堀越二郎と堀辰雄に敬意をこめて」と最後に献辞が示されていることからもわかるように、「風立ちぬ、いざ生きめやも」という誤訳に独特の重みが与えられている。
明日に続く。